浮世絵で見る芝・赤坂

第4回 芝神明増上寺〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:青山なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸時代から勉強大好き?

さてと、話を増上寺の歴史に戻そう。お寺というのは、そもそも仏教を布教するための施設なんだけど、同時に初等教育機関でもあった。よく大河ドラマなんかで戦国武将が子供の頃、お寺に預けられるだろ。お寺に寄宿して、読み書きや古典、和歌、連歌なんかを勉強する。武士たるもの、一流の教養人たれ、ということだな。で、江戸時代になって、こうした初等教育を一般庶民にまで広めたのが「寺子屋」というわけ。

寺子屋の寺っていうのは、そういう意味なのね。


そう。だから江戸時代、日本人の識字率は世界でもトップクラスだった。で、増上寺のような名刹になると、お坊さんを育成する教育機関としての役割も担うわけ。これを「壇林」と言うんだ。今で言う仏教系大学のようなものだね。

前回話していた托鉢のお坊さん達が学生ってこと?


その通り。増上寺の修行僧は83の学寮に3000人いたという話をしただろ。学寮と壇林は同じ意味だ。浄土宗では関東に18の壇林があって、増上寺は、この関東十八壇林の筆頭だった。

っていうことは、宗派によってそれぞれ壇林があるっていうこと?


その通り。天台宗にも日蓮宗にも、それぞれ壇林があった。ちなみに関東十八壇林なんていう呼び方は、お寺の寺格、つまりランク付けという意味もある。浄土宗で言えば京都の知恩院が「門跡」と言ってナンバーワン、増上寺はそれより下だけど「大本山」という位で、浄土宗全体を統括する行政事務所「総録所」が置かれていた。

つまり、増上寺は関東では浄土宗ナンバーワンっていうことなのね。


そういうこと。徳川家の篤い保護があったから、そういう地位を手にできたということだね。江戸時代の高等教育機関としては、増上寺のようなエリート僧侶育成機関の他に、優秀な家臣や学者を育てるための学校もあった。江戸なら朱子学の湯島聖堂。これは後に昌平坂学問所という総合大学になる。今の東大や筑波大のルーツだな。地方の場合は藩校ね。会津の日新館とか、水戸の弘道館なんかが有名だ。

そういえば、足利市に足利学校っていうのがあるわよね。


足利学校は藩校でなくて、江戸時代以前からあった関東の最高学府だ。創立は平安から鎌倉時代と言われているから日本最古の学校と言ってもいいだろう。最盛期は室町から戦国時代にかけて。儒学や易学、兵学なんかを教えて隆盛を誇っていた。で、布教のために来日したフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」なんて書いたから国際的に有名になっちゃった。江戸時代になってからは家康の庇護で存続していたんだけど、さっき言った朱子学の流行によって廃れてしまった。ちなみに、ここの卒業生たちが全国で寺子屋の先生になったから、日本の教育水準が上がったという側面もあるんだ。

ふ〜ん。そう考えると、日本って昔から教育熱心な国だったのね。


昔はどうあれ、今はどうかなぁ…。まぁ、江戸の大学事情はこのへんにしておいて、増上寺と言えば時代劇ファンなら誰でも思い出すエピソードがある。

えっ? 何だろ。ワタシは韓流ドラマしか観ないからわかんないけど…。


「忠臣蔵」ですよ。元禄14年(1701)3月、江戸に下向した勅使が増上寺を参詣する際に、饗応役、つまり接待担当の浅野内匠頭に、作法を指導する立場の高家・吉良上野介が増上寺の畳は替えなくても良いという嘘の情報を教えたから、後で江戸中の畳職人を集めて徹夜で畳替えをするハメになるというエピソードね。

あっ、それならテレビで観たことある。吉良さんのイジメがだんだんエスカレートしてくるのよね。それでプッツンした浅野さんが吉良さんに斬りつけるんでしょ。

実は、それを遡ること21年前の延宝8年(1680)6月、増上寺で似たような事件が起こっている。4代将軍家綱の法要の際に、志摩国鳥羽藩主・内藤忠勝が、丹後国宮津藩主・永井尚長を刺殺するという刃傷事件だ。

殿様が殿様を刺したっていうこと? 確かに「忠臣蔵」みたいな話ね。


内藤も永井も、増上寺の警護役を命じられていたんだけど、もともと仲が悪い上に、業務上の連絡で食い違いが起きたというのが原因のようだから、実に「赤穂事件」に似た話なんだ。

でも、勤務中にケンカして殺人になるなんて、およそ殿様らしくない話じゃない?


殿様って言ったって、2人とも26、27の若者だよ。血気盛んな頃だ。でも、この事件を裁定したのは、着任したばかりの5代将軍綱吉ではなくて、恐らく罷免される直前の酒井雅楽頭(うたのかみ)か、綱吉を将軍にした功労者である堀田正俊だと思う。だから「喧嘩両成敗」の原則にのっとって、両家とも断絶、改易になっているんだけど、赤穂事件の時は、側用人・柳沢吉保を通して綱吉が直接裁定したから、吉良だけがお咎め無しになった。

あ〜、その不公平が討ち入りの原因になったっていうことかぁ。


そういうこと。でも、この2つの事件は、単に似ているというだけではないんだ。加害者である内藤忠勝の姉、波知は播州赤穂藩の浅野長友に嫁いでいる。そしてこの長友の長男が長矩、つまり浅野内匠頭なんだ。

え〜、っていうことはつまり…。



浅野内匠頭は内藤忠勝の甥なんだよ。要するに、21年後に甥が同じような事件を起こして切腹し、お家も断絶させられたというわけ。

なんかミョ〜な因縁を感じるわね。



綱吉の時代には、他にもさっき言った堀田正俊ね、この人は綱吉を将軍にした功績で大老になるんだけど、貞享元年(1684)に江戸城内でいとこの若年寄・稲葉正休に刺殺される。その17年後に起こったのが「松の廊下」というわけで、大名同士の刃傷が相次いだ。ところが綱吉という人は暴力や流血沙汰が死ぬほど嫌いという人だったから、ついついこの手の話にはヒステリックになるし、老中の意見も聞かなかった。そういう意味では、赤穂の家臣達は運が悪かったとしか言いようがないね。

なるほどねぇ。江戸時代の平和のシンボルみたいな増上寺にも、そういう隠れた歴史があったのね…。

日本最古の学校と言われる足利学校(栃木県足利市)→
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