浮世絵で見る芝・赤坂

第6回 芝うらの風景〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:青山なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸の風景いまいずこ…

いや〜、何回聴いてもいいねぇ。やっぱり名人三木助は最高だな。


初めて聴いたけど夫婦愛の話なのね。ちょっぴり感動しちゃった。


昨年亡くなった7代目立川談志の『芝浜』も圧巻の名演だったなぁ。こちらは三木助のオーソドックス版をかなりアレンジして、夫婦というより男女の愛情の機微にまで昇華している。

それにしても、江戸時代には隅田川で白魚が獲れたっていう話は、ちょっとビックリ。


マクラで紹介している「明ぼのや しら魚しろきこと一寸」という俳句ね。これを三木助は「翁の句」と言っているけど、本当は芭蕉の句で、白魚は春の季語なんだ。産卵のために川に遡上するわけ。このヴァージョンには入ってないけど、三木助は「佃育ちの白魚さえも、花に浮かれて隅田川」なんて粋な都々逸を挟むこともある。

大橋の白魚って言ってたけど、大橋って千住大橋のこと?


江戸時代に大橋と呼ばれていたのは、最初は両国橋で、次が千住大橋。新大橋も広重の絵には「おおはし」なんて書かれている。千住大橋辺りまで白魚が獲れたというのは記録にも残っているから、一般に大橋の白魚と言えば千住大橋なんだけど、鏑木清方のエッセイなんかを読むと、明治の頃までは新大橋辺りでも佃の漁師が白魚を獲っていたという記述がある。まぁ、落語の中では銭湯で人形町のお年寄りが言っていたということだから、新大橋のことかもしれないね。

でも、落語って聴いてると、何となく江戸時代の風景が浮かんでくるわね。


本当は、三木助はもっとじっくりとかつての芝浜の美しい風景を描写しているんだけど、現在残っている録音はほとんどラジオ用の短縮版だからね。そこはちょっと残念なところだな。

芝浜って、どのへんにあったの?



田町駅の線路沿い、現在はマンションカテリーナ三田タワースイートのある辺りだ。そもそも明治5年(1872)に開通した日本最初の鉄道、新橋〜横浜間は海岸線に堤防を作って、その上に敷かれたわけ。だから地図で今のJR線を見れば、江戸時代の海岸線がわかるというわけだ。

っていうことは、今線路の西側にあるところは、全部埋め立て地っていうこと?


そう。最初の契機は関東大震災で、鉄道が壊滅しちゃった。内外から救援物資が運ばれてもそれを運ぶ手段がないから、船の荷物は芝浦の海岸に殺到したらしい。そうなると東京にはまともな港がないという話になって、日の出、芝浦、竹芝、品川と、どんどん桟橋や埠頭ができた。

そうかぁ。きっと昔はのどかな海岸線だったのね。


それでも、三木助が高座に上がっているころは、まだ多少面影があったんだ。マンションカテリーナ三田タワースイートとJR線の間に、本芝公園という細長い公園があるだろ。

ああ、船のオブジェがあるところね。



公園の沿革にはこう書かれてある。「この付近は、芝の中でも、古川川口の三角州に、江戸時代より昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたため雑魚場と呼ばれた。人情話「芝浜の革財布」はこの土地が舞台である。明治5年に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末から次第に埋められ、漁業も行われなくなって海水が滞在したので、昭和43年に埋め立てて、港区立、本芝公園として開園した」

そういえば、あの公園に通り抜けのトンネル(写真)があるわよね。


そのトンネルが「雑魚場架道橋」だ。よ〜く見ないとわからない地味な看板が付いてるよ。


なるほど。探せば江戸時代の痕跡が見つかるかもね。


昭和に入って埋め立てがさらに進んだのは、東京オリンピック以降だ。あんまり埋め立てが進んだから、かつての芝浦の海は、海ではなくて運河になっちゃった。京浜運河もそのひとつだ。

昭和になって、景色が激変したのね。



戦後最大の埋め立て工事は羽田空港だね。あれで羽田の豊かな漁場も大森の海苔養殖も次第に姿を消していった。開発の陰には必ず環境破壊があるし、産業の入れ替わりがある。これからはもっと考えないといけないね。

環境破壊かぁ〜。いくら頑張っても、もう江戸時代ののどかな風景には戻れないもんね。


でも、環境破壊、景観破壊は広重の時代にもあって「江戸百」でさりげなく描かれているんだ。それがこの『品川御殿やま』(写真右)ね。

御殿山って、御殿山ヒルズの御殿山?



そうだよ。絵の中で人が歩いている海岸が、明治以降、線路になった。御殿山は品川大地の先端にあった丘陵で、かつては海の見える花見の名所として有名だった。でも、この絵では崖になっていて、裸の山肌が見えているだろ。

確かに。丘の上には桜が咲いているけど、ちょっと殺伐とした風景よね。


これはお台場を埋め立てるために削られた跡なんだ。国防のためには花見の名所を守ろうなんて言ってられなかったわけ。

ってことは、意識的に広重さんはこの風景を描いたのかな。


以前は、陸側から描いていたのに、わざわざ海側から無惨な風景を描いた理由として広重は「そのさま昔に変りぬれば今また図にて参考の便とす」と記している。

はっきりとは言わないけど、ちょっと怒ってる感じがするわね…。


埋め立てで削られ、鉄道で削られ、庶民のささやかなレジャースポットが近代化の波にのまれて姿を消してしまった。晩年の広重は、「江戸百」という大作に挑むことで、失われていく江戸の姿を残そうとしたのかもね。

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