浮世絵で見る芝・赤坂

第2回 増上寺塔赤羽根〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:青山なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

「上から目線」の謎

だいたいねぇ、六畳一間のマンションなんかに住んでるから、増上寺とか寛永寺の広大なイメージが湧かないんだよ。

どうして私の家の間取りを知ってるんですか。私だけじゃなくて読者の皆さんだってイメージ湧きませんよ。

ははは。それなら同じ広重が描いた増上寺の鳥瞰図(写真上)を見てもらおうか。これなら何となくわかるだろ。

広いっていうのはわかるけど、どこが増上寺なの?


真ん中のちょっと右下に橋があるだろ。その先にある門が総門。「芝大門」と言った方がわかりやすいかな。今ではコンクリートの門になってるけどね(写真下)。

芝大門の手前には川があったのね。松の木もたくさんあるみたい。きっと綺麗だったでしょうね。


これは桜川。赤坂の溜池から流れてきて渋谷川に合流する。形状から言えば川と言うより堀割と言った方がいいね。大門をくぐってしばらく歩くと、唯一戦災を免れた三解脱門、いわゆる三門がある(写真下)。

サンゲダツモン? どういう意味?



ここを通ると、貪、瞋、癡(とん、しん、ち)という3つの煩悩から解脱できるという、ありがたい門だ。

えっ? とんち坊主?



誰が一休さんの話をした? まぁいいや。三門の奥が大殿、いわゆる本堂だな。今はこの本堂の右側に東京タワーがそびえているけど、戦争で焼けるまでは左側に五重塔がそびえていたというわけだ。

へぇ〜。でも、この絵って東京タワーみたいに高いところから描いたみたいね。


これはあくまで想像して描いたものなんだ。当時、高いところから都市の景観を楽しむ方法がなかったから、こういった絵は人気が高かった。だから絵師たちはこういう鳥瞰図をたくさん描いているんだ。

右下にある神社みたいなものは何?



芝大神宮だね。もともとは日比谷神明宮、この時代には飯倉神明宮と呼ばれていたようだね。今の呼び名になったのは明治からだ(写真下)。

飯倉って、飯倉交差点のあるところ?



かつては麻布飯倉町と呼んでいた地域だ。飯倉という地名は、もともと穀物倉庫があった場所を表す古い地名のひとつなんだけど、今は地名としては残っていないんだ。ちなみに神谷町という地名も消えてしまったね。

あれ? 神谷町って駅名もビルもあるでしょ。



それを言うなら原宿も吉原も、駅名や地域の総称としては残っているけど、地名としては存在しないんだ。残念だよね。業平橋なんて風情のある駅名が「とうきょうスカイツリー駅」になってしまうご時世だからね。

地名って本当はその土地の歴史を表しているのね。


芝大神宮はもともと飯倉山にあったから飯倉神明宮と呼ばれていたわけだけど、増上寺が麹町から移転する際に今の場所に引っ越したというわけだ。

増上寺って、もともとは麹町にあったの?



その話はまた次回、ということで広重の絵(写真左)に戻ろう。右の古地図を見て欲しいんだけど、これが当時の位置関係だ。赤丸で囲んだところが五重塔で青い丸で囲んだところが赤羽橋。下を流れるのが古川、今の渋谷川だ。つまりこの絵は五重塔から見て南西を見ているという構図なわけ。左に見える塀は九州久留米藩主、有馬家の上屋敷で、赤いのは御主殿門、後ろにそびえるのが火の見櫓だ。

でも、何でこんな変わった構図にしたのかな。そのお屋敷が観光地っていうわけでもなさそうだし…。

諸説有るけど、研究家によれば、一介の町絵師である広重が、幕府の施設である増上寺奥の霊廟に入って五重塔を描くことはできなかったので、見える部分しか描けなかったという説、地震後に増上寺の御霊屋を修理したのがこの有馬家だということで、それを暗示しているという説もある。

広重の絵って結構謎が多いのね。次回が楽しみになってきたわ♪

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